2015/11/01

空白の4年間

こんなに簡単に更新したらまた三日坊主になるってのに、書きたい時は本能的に更新しておかなければね!
とりあえず更新ですわ。

いやー、この4年間ったら本当に目まぐるしいですな!

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自分でunrealってパーティーを立ち上げたり、潰したり、また再起動させたり。

20141101orange_ben_sims_japan_tour

去年はnome officeの協賛で思い出深いplastic theaterでBEN SIMSを仲間と一緒に招聘したり。
おかげさまで今年は妻を娶る事が出来たり。

ここのブログ、あんまり誰も観ていないと思うから言えるんだけれど、今本当にスランプ中のスランプなのよ。
上記の通り、昨年の2014年11月1日にUKを中心としたヨーロッパの超大物DJであるBEN SIMSの件。
実際に凄いパーティーだった。もう、あんなに感動したことはない。
胸を張って言えるよ。仲間達と最高のパーティーを作り上げることが出来た!って。
道内のテクノキッズが汗ダクで人と人との隙間がない中、ものすごいテクノが鳴っているとてもいいパーティーだった。

あれから私の中で、人生のピークというか…DJのピークというか。
まぁ、その日のプレイが人生における最高の舞台で、ワーストなDJをしたっていう一つの心的外傷ストレス症候群。
今でも覚えている。
SD入れたら読み取らない→頭真っ白→ミックス微妙な所でとりあえずブッ込むみたいな。
それからはいわずもがなボロボロのDJだった。
周りはフォローしてくれたけれど、あくまで自分で納得したプレイが出来たかどうかだから、敗北のDJでした。
あの日に戻りたいと思うならいろんな日があるけれど、今戻りたいとしたら去年の今日だ。

確かに失敗する夜もある。というよりも沢山の失敗の中で自分はDJを続けてきたはずだ。
むしろ、失敗したプレイの方が多すぎる。
自分のプレイは野球に例えるのがとってもスッキリする。
0.250のの打率で25本の本塁打。だからハマる時はハマるし、打てないときはカラッキシ。
10年以上DJやっていてもアベレージヒッターになれないのはこれはもうセンスの問題としか言いよう無いのである。

そんなこの一年間、自分を見つめてきた。
色々と考えては、考えるのではなくfeelしなきゃと念じてみては、もがき足掻いてリセットして。

いつしかあんなに好きだった音楽が全く好きではなくなってしまったんだ。

車内では次に使おうと考えているデータを車内オーディオに入れてチェックしながら通勤していた。
こだわって使っていたCDプリントをいつの間にか杜撰な手書きになっていた。

音楽が好きだった自分が、いつの間にか意図せずに行ってきたルーティンをしなくなっていたという事。
それは、DJとして怠惰。ンなモン上手く行くはずがない。
自分で負のスパイラルに入っていくようなもんなんだよな。
そこに気付いたのはホントに最近よ。マジで最近。

何が浮上のきっかけになったかというと(厳密には浮上してはいないのだが

Record_1202132243

レコード。

原点に戻ってみたんだ。

ヴァイナルオンリーでDJしていたのに、新たな可能性を信じてCDでDJするようになっていた。
前はヴァイナルとDJのハイブリットだったけれど、今じゃCDオンリー。
データはトラックの把握がしやすいようで、難しい。
便利なんだよ。本当に。
だけど、その便利にかまけてしまって五感を働かすことが少なくなってしまった。
例えば先月作ったDJ用CDが何曲目にあの曲があると把握しようとする。
だけど、思い出せない。
それがレコードになるとこのレコードのA2にあの曲が入っているだとか、基本このA面しか使わないけれど、実はDJに向かないがB2のトラックがフェイバリット!
みたいな。
豊富な情報量を楽して20%得て中途半端なDJをしている昨今。
だけど、少ない情報量を70%得る努力をして初めて人様に見せられるDJに戻れるのではないか?
PCDJの使い勝手に感心しているけれど、アナログ人間の自分に使いこなせられるのだろうかと考えると疑問しか出てこないんだよなぁ。


しかし、4年前か。
その頃の自分は今なんかよりもすごく生き生きしていたと思う。
今もそのスタンスを崩しちゃいないつもりだけれど、人間的に今の自分は好きじゃない。

自分が好きになれる自分に戻らなければ。

そういうキッカケを作ってくれたのはやっぱりレコードだったってこと。


no turning backの精神で振り返らずに前を向いていたつもりだ。

だけど、視界が悪い前に進んだ結果いつの間にか振り返ることなく後戻りをしていた。

これからはクリアな視界で前を向いて歩いて行こう。

turningしたっていい。かならず戻る場所(原点)がある自分は幸せだと思っている。

さあ、前を向いて歩こう。

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ワタクシのBLOG、開設10周年に際しまして。

4年も経ちますか…4年なんてあっという間のようで、逆に返せば本当に色々あったなぁ。
どうもお久しぶりです。wada-J groovin'です。

4年前というと2011年。SNSでまだmixiが辛うじて生きていて、twitterやfacebookに取って代わられる頃か。
my speceなんてのもあったなぁ。もう誰も活用していないだろうなぁ。
っていうか、BLOGなのてのも今じゃアメブロ一強の時代。
ココログで放置BLOGを4年ぶりにアップするってぇのは申し訳ないっていうか、下手糞モノカキのルサンチマンというか、なんでしょうかね。
久しぶりにログインしたんですよ。ここに。
何年ぶりでしょうか?いや、やっぱり4年振りか。
その4年振りに覗いてアクセス解析して、まさか昨日6名の方が私のBLOGを見てくれているんですね。
こりゃもう、今だったら波田陽区にユーチューバーとして勝てるんじゃないだろうか?
そんなワケで、久しぶりの更新になったのです。

本当に皆様お久しぶりでございます。
初めましての方も、お久しぶりの方も、これからもwada-J groovin'をどうぞよろしくお願い致します。

今年はfeel so excellence noiseが開設10周年になるんですね(今知った

ということで、ゆっくりながらも確かに更新していく所存です。

これからもよろしくお願い致します。

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2011/07/30

レッドカーブの思い出

レイ・ハラカミさんが亡くなった。

sublimeにもYamahaの公式でも発表された。

享年40歳、脳出血。

あまりにも早すぎる死。

去年のRSR2011でyanokami(矢野顕子+rei harakami)で観たのが最後になってしまった。

ちょうど28日の夕方、大通公園のビアガーデンで職場の仲間達と呑んでいる時、Twetterを見たらツイートされていた。

もうそうなったら酒で悲しみを流すしかないわけで、だけどそんな時でもビールの旨さは否定できなくてもどかしい気持ちになりながらの一日だった。

そのあとすぐにdustdaysのDJ TSUYOSHI兄に電話して、互いに悲報を悲しんだ。

そう、ハラカミさんはdustdaysに加入したばかりのオレにとって初めて共演したアーティスト。

忘れもしない2005年12月30日。。。

Photo

楽曲と同じように繊細で気難しい人なのかと思いきや、とても気さくでお酒が大好きで豪放磊落な方で。

マシンガントークでメチャメチャ面白くて天才的な方で。

前日からの帯広入りだったんだけれど、オレがセレクトしたお店を喜んでいただいてとても嬉しかったもんだ。

そんなハラカミさんの旧ブログに帯広での行脚についてまだ残っていたのでリンクしておく。

reiharakami"ちょっと遡って帯広帝国訪問報告"

当日のパーティー自体もとても盛り上がって、オレ自身も重責の一端を担っていたんだけれど、party crewとしての役割の大切さやオーガナイズの素晴らしさを学んだ素晴らしい3日間だった。

ホント、今もこうやって思い返して見てもあのパーティーは自分のキャリアの中でも大きいモンで、今もそれが生きていると思う。

たった一度招聘した地方の一介のDJなのに、次の年のRising sun rock festivalでは電話も頂いたり、ハラカミさんの優しい人柄と粋な人柄を改めて感じたのを憶えている。

次の日は元ロッテの伊良部が自殺という衝撃的なニュースも飛び込むし、ちょっと前ならKAGAMIやNujabes・・・本当に世界に誇れる日本のトラックメイカーが夭逝していくことが残念でならない。

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ありがとう、rei harakami。

僕らがそっちに逝く頃はかなり時間は経つかも知れませんが、その時はまた帯広に呼ばせてください。

合掌。そして、感謝。

そして、告知です。

[HOME]
DATE:27 August 2011 (SAT) 23:00
VENUE:club afro
CITY:OBIHIRO HOKKAIDO.JAPAN
FEE:unknown
Guest DJ's
TANAKA(orange)
TAKASUKE(THE HAKATA)
DJ's
wada-J groovin'

Homeはこの日をもって活動を中止ということで、とにかくフィナーレをみんなで迎えたいと思います。

マジでみんな来てくれよな!!

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2011/06/10

人はそれぞれ。だけどね。

花粉症の影響で、この一ヶ月はもうグダグダ。

メンタマはかいーわ、クシャミは止まらんわで本気(立原ひろみワールドては本気と書いてマジと読む)でサナダムシを腹に飼おうかと思ったwada-Jです。こんばむわ。

なんかさー、やっぱり震災は今でも現在進行形でさぁ。

原発を止めろだのたくさん日本国内でも声が上がっていたり、そういうシュプレヒコールが上がることはとても良い事だと思うワケですよ。

で、未だに仮設住宅にすら住めない人達がたくさんいて、本当に不自由な暮らしを強いられている被災者達が大多数なわけで。

例えば、新車を買いますよってなっても納期は半年後とか。

例えば、家を建てている途中の人が居ても建材がまだ滞っていて目処が立ちませんよとか。←実際、建材についてはかなりカバーされるようになってきているが。

それどころか、震災地で建設中または新築の家が全壊しちゃったりとか。

今でも避難所で暮らしている人々とか。

そういう人達を

もう皆様、忘れていませんか?

と感じてしまうのはオレだけでしょうか?

それは、某アイドルグループの総選挙とか。

オレはかなりイライラしてしまった。

んなアイドルの定位置とか、正直どうでもいいんです。

オレの大好きなプロ野球、我が千葉ロッテマリーンズ。

正直、今年は成績も散々なのもあるけれどどうでもいい。

要は国民一人一人がこの大震災にちゃんと向き合えているのかという事。

被災していない自分とかは、客観視できてしまうからどうしても気にしてしまう。

あの3.11の未曾有の大震災。

あれからもう3カ月が経とうとしているけれど、勿論経済が活性化するためには自粛なんてとんでもない話なワケで。

被災した人達が『自粛なんてしないでください』と言ってくれたのはとても有難い話で。

だけど、『震災を忘れてくれ』とは誰も言っていないワケで。(キタの国から風)

原発の問題、政治の問題、どっちもとても大切な問題だらけ。

しかし、被災地の声のレポートがとても少ない。

今、どの地区で被災者はどのように暮らしているとか、仮設住宅にどれくらいの人数が生活できているとか。

直接の声はそのまま今の後手後手で救国すらできないクソ内閣にくれてやればいい。

ただ、原発事故の時もそうだったように、明確な数値を明らかにしてくれるメディアがほぼ皆無だ。

それは、内閣擁護が働いているかもしれないと思われて当然だよ。

だって、あんだけ当時の麻生首相が漢字を読み違えただけで非難轟々のネガティヴキャンペーンを行ってきたんだから。

メディアが国民を煽動して新しい国を立ち上げたと言っても過言じゃない。

ただ、被災地の人達が何を望んでいるのかを考えてほしい。

それは、今の現状から逃れたい救いなんだと思う。

今まで平和に暮らしていたのに突如襲った大地震と未曾有の大津波。

あんなに離れている帯広にだってその相当な揺れを感じたもの。

オレはこうやってビールを呑んで音楽聴いて、何不自由ない暮らしが出来ているけれど、被災地の人達は未だに不自由な暮らしの中で不安な日々を過ごしている。

そんな中で、自分たちに出来る事は限られているし、とても無力であることを痛感している。

原発を止めろとかなんとか。

この声を上げる事は良いのだけれど、じゃあ止めた後にカバー出来る電力はどこから来るの?とか

声を上げる人達はそこまでいかない。

その分の電力は使いません、と言っても個人レベルでの節電なんて本当に微々たるもの。

自家発電ったって化石燃料で発電するんだから温室効果ガスはウナギ登りに増加するんですよ。

バイオディーゼルがどんどん進化しているので大丈夫なんて言うけれど、それの原料である穀物の高騰化で飢えに苦しんでいる人達はたくさんいるのだ。

しかも、カーボンニュートラルでCO2はプラマイゼロとか、正直全然信用になるレベルじゃないし。

日本が輸入しようとしているマレーシアやインドネシアじゃバイオディーゼルの原料になるパームの生産のために森林破壊して畑を作っているし。

んで焼畑農業だから根本的な解決には至っていないんだよね。

今たくさん叫ばれている太陽光発電だって、作るコストに見合うだけのエネルギーを供給できるかなんか本当に微妙。

微々たるものかもしれないが、風力発電と地熱発電くらいしかやるべきものを見出せない。

水力だってこの前までダム作ろうとしたら無駄な金使うなって大反対されたじゃないか。

だから、原発止めるのは結構だけれど、その代替エネルギーをどう工面するのかまでシュプレヒコールを挙げる人達には発言して欲しい。

本来、日本の国にはたくさんのエネルギーが今でも眠っているワケ。

北海道の北部、サハリンと今話題の尖閣諸島には石油と天然ガスがたくさん眠ってる。

メタンハイドレートって天然ガスなんかは西日本の海底にたくさん眠っているのに、あんまり着手できていない現状。

特に日本は天然ガスについては得意分野なのに。

今年、愛媛大学大学院理工学研究科のグループが、液中プラズマでメタンハイドレートを分解して水素として採取する技術を発表したそうな。

マスコミはこういう所を全く報道しないけれど、オレは本当に期待している。

こういう資源を活用する事で非原発での電力供給は進めていけるはずだと思うが、如何なものだろうか?

もちろん、CO2は発生してしまうのだが。

安易にCO2削減目標を-25%としたアホなトリ頭もいたけれど、我が国のエネルギー問題は本当に考えても考えても難しい局面にしていると思う。

農業にしたってそう。

TPPで貿易の自由化が迫られている。

これだけ滞った経済で消費は見込めない。

消費税の増税が決定されればますます冷え込むことになる。

その中で、3本で100円の中国産の長ネギと2本で198円の埼玉県産の長ネギのどっちを買うかというと半数以上は中国産の安いネギを買うだろう。

ブラジル産の鳥モモ肉100g68円と北海道産鳥モモ肉98円も同じ。

つまり、日本の金は海外にどんどん流れていく。

第二次産業にとっては技術をアピールする場になるのだからいいのかもしれない。

だけど、もし世界的に何かあった時に輸入が出来ないような事があったらどうするの?

オレは常々思っている。

自国の事は自国で守る事が大前提である、と。

それは、尖閣諸島もそうだし千島四島にしてもそう。

農業にしても勿論。

今回の震災で、大都市部じゃ食料の買い占めで大変だった。

生きるためには食料有りき、です。

今回の震災で本当に感じたのは、マクロ的な視野で国防がとても大切だということ。

そういう意味で政局がこうなるのは当たり前の事だと思う。

被災者の人達の気持ちとしてはそれどころじゃないってのも充分分かるけれど、機能していない舵取りを下野させる事は当然なんだよ。

震災後に協調介入で1ドル85円まで持ち直したけれど、昨日までは79円台。

世界中の人達が円を買っているというのは円が世界に流れて行っていること。

民主党の次期代表候補である野田財務大臣は注視しているとばかりで何もしない。

経済を鼻っから回すつもりは無いらしい。

どうなっちゃうんだろう、オレらの日本。

そういう気持ちになれば子ども達を不幸にさせたくない気持ちから出生率が下がるのは分からなくもない。

産業も国民も全てがリンクして日本という国があるのだから、その舵取りは強力なリーダーシップを発揮して頂きたいモンです。

あー、酔っぱらって本当にグダグダな文章になったわ~。

ただ、オレが今こういう風に思っているってだけなんで、語弊を産んだならゴメンよ。

ホントに一人の意見ってだけだから。

やっぱり、日本という國が好きなんよ。

オレ達のの先祖が守ってくれたこの日本という國を、自分たちの世代がどうすべきか考えたらやっぱりこう書いちゃうんだよな。

あ、不快に思う人が居たら消します。

炎上とかイヤなんでね(涙)

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2011/05/25

僕の恩師の挑戦。

プロでも何でもないが、自分が音楽を始めて12月で7年になる。

継続は力なりとは良く言ったモンで、オカゲさまで色んな人達と出会い、絆が出来、そして今に至るワケだ。

これも音楽のオカゲである。

だから、日々音楽に感謝しつつ箱で音を流す。

こういう自己表現のキッカケになったのはどこからなのか?

辿っていくと、全てはあの日から始まる。

前も『wada-J groovin'生誕秘話』という形で紹介したが、某FM局の出会いからだった。

そのラジオパーソナリティーと言うのが、溝手孝司(以下 ミゾッチ)。

ミゾッチとの出会いはオレの人生の中でセンセーショナルそのものだった。

キレのある話術、巧みな表現、それは失礼に当たるかもしれないけれど今までの地方局ラジオパーソナリティーの枠では括り切れないものだった。

次々に繰り出される笑いのグルーヴ…オレにとってラジオがあればそれで充分すぎる原動力だった。

オレが高校2年の夏にそのラジオ局から旅立った。

マイクからペンに変え、苦労しながらもグルーヴを繋いでいく。

某北海道ウォーカーや某男の隠れ家、その他紙面を通して楽しませてもらった。

チャーザー村に転居してからもたくさんお世話になった。

こんな一介のリスナーにも呑みに連れてってくれたり、室工大への取材に同行したり、オレんちでグッチィ(その後FM軽井沢のラジオパーソナリティーになる)とミゾッチの3人でダーツやったり。

多感な10代後半から20代前半まで、今でもお世話になっている『師匠』である。

そんな彼がまたグルーヴを広げようとしている。

ポータル北海道である。

世界に北海道を発信する。

特産品やグルメ、文化…それを活字や動画を使ってアピールする。

北海道をより魅力的な物にしてくれそうな気がする気がしてならない。

ミゾッチの挑戦、オレは応援しています☆

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ちなみに、北海道ポータルで売ってる余市町・清久果樹園の「佐藤錦」。

アレルギーじゃなければ絶対喰ってるよ、コレ。

メッチャ喰いたい。

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余談だけれど、北海道の話題だったんでこれは書きたかった事。

正直言って北海道は日本に舐められているよ。

日本の食糧自給における北海道の役割は計り知れないのは周知の事実。

資源もたんまりとあるんだ。食料資源もエネルギー資源も。

だけれども、北海道に経済を回すだけのお金が来ない。

しかも、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)で貿易の自由化が締結される寸前の所まで来ている。

北海道の存在意義とは何?

TPPが現実のものになれば、日本はどうなってしまうだろう。

GATTの時だって日本は凌いできた。

それだけじゃない、狂牛病問題の時は「やっぱり国産が安心だね」とみんな思ったはずなんだ。

つまり、280円のユッケじゃないけれど安いものにはウラがある。

だから、自分で作るものには日本の物しか使わんと決めた。20歳の時に。

しかし、自分の思想は親米保守だけれど、TPPは無理。

第一次産業があるから第二次産業があり、第二次産業があるから第三次産業があるのを忘れてはならない。

そういう意味において、日本の正義として農業の壊滅は避けなければならないのだ。←敢えてのジャスティスなんです。

もっと日本はドメスティックになるべきなのだ。

今回の未曾有の大震災、都内は勿論のこと中核都市じゃスーパーで買占めが起きたという。

食料が満足に供給できていれば、被災していない土地でこんなことにはならなかっただろう(買占めは食料に限った事ではないのはわかっているけれど)

つまり、日本国内で農業を活性化させて輸入に頼りすぎずに『地産地消』していかなきゃいけない。

その為にはそういうものを突っぱねられるよう日本の国が強くならなきゃ。

日本が危機に陥った時、手を差し伸べてくれるのを待っているようでは駄目。

手を差し伸べてくれた時は感謝を。今回メルトダウンさせてしまったようにそれを断るようではいけないのだけれど。

外国から舐められても突っぱねる外交力…この昨今の日本の凋落振りは本当にガッカリしてしまう。

『遺憾に思う』で終了…これじゃあいじめられっ子に暴力受けても先生にも言えず、落書きされた教科書を隠しながら下校する小学生と同じだよ。

だから、舐められない様に日本はビルドアップする。

外国に対する法整備(まずは侵略行為に対する法の制定から)や新規就農者の奨励。

あと、特産物が無ければ特産にしてしまえばいいんだよ。その土地で作られているものを。

その地域一つ一つがオンリーワンになっていけば、やがて日本はナンバーワンになれる事だと思う。

それは農業も産業も、日々多様化する第三次産業も。

今の日本は海外の人達にとって魅力的な国だろうか?

魅力的なものであってほしいけれど、今の日本ではそう思われる事は無理な話に思える。

オレはこの美しい國・日本が千代に八千代に続いていくために、誇りある日本人として生きていきたいと思うわけです。

ブログでは敢えて表明する事ではなく、言葉に書き起こさないようにしていたけれど、この度の東日本大震災における被災した皆様に心よりお見舞い申し上げます。

被災した方々に一日も早い安息の時が訪れる事を心よりお祈りいたします。

まずは日本の経済を活性化すること。

金はオレみたいに無い所は無い。だけれどもある所にはある。

経済回すためには、国民が消費しなければ成り立たない。

今年もオレは呑みます。

この日本の中の北海道、もう生まれてずっと住んでいる北海道。

魅力的なんだよ、マジで。

海はあるし、メシは旨い。

独自の文化は面白いし、音楽だって多種多様。

大自然も味わえるし、人ごみにまみれる事も出来る。

そんな北海道の良さがこの文明の利器・ネットを通じて世界にアピールする場として北海道ポータルが出来たのはとても嬉しい。

酔っぱらって駄文になってしまったが、オレら世代で出来る事があれば色んなグルーヴ創っていきたいよね。

それは音楽でもそうだし、それ以外でも。

僕の挑戦も続きます。

継続は力なり。

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2011/04/09

nome office 13周年を祝して

僕がsogabe氏を知ったのはDJ TASAKAをnomeにゲストとして招聘したパーティーでのこと。

あの日は前日にprecious hallでKAGAMIとTASAKAのDISCO TWINSでハッスルして、その足で帯広に行き、一睡もせずにミゾッチ主催の朝野球に参加。

その後グッタリ寝てからのnomeで、今考えるとオレ体力あったんだなぁいう殺人的スケジュールの中のnome。

あれが確か2004年6月じゃなかっただろうか?

いや、2003年か?

まだオレが21歳とかそんな時。オレは周りから見たらスゲェ若いほうで、皆から若くて良いね!みたいに言われていた。まぁ、オレにもそんな時代があったっつーことだ。

とにかく、まだDJブースも買って間もない頃だった憶えがある。

そっからたくさんの人に出会って学んだ。

弟が先にnomeのフロアでプレイし出して、んでオレも便乗してブースの前に立つようになった。

nomeっていうのは本当に学び舎のようなもので、住んでいたチャーザー村との距離は210km。

その往復なんて全く苦にならなかったし、パーティー明けでそのまま職場に行く事もしばしば。

あの頃、オレは体力あったんだなぁと(笑)

あれから時は経ち、nomeからdaihachisoukoへ。daihachisoukoから現在のmaniacへと移り変わる。。。

daihachisoukoの立ち上げでは微力ながらお手伝いさせてもらった。

サイドの壁を塗ったり、建材運んだり、なんか高校の学園祭のようでとてもワクワクした。

塗料が足りなくてヒヤヒヤしたりしたけれど、オレがチャーザー村に戻っている間に完成した。

そうやってみんなのチカラで出来たdaihachisouko、本当に本当に凄い店だった。

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まさにワンダーランド。煌びやかで、エキゾチック。そしてアンダーグラウンド。

だから、ダークな曲を数多セットに入れていった。

Hard Technoからclick、progressive house、electroへの変遷、札幌で学んだものもそこでガンガン反映出来たと思う。

あと語弊を招くかもしれないが、世界的なクラブシーンの流れというか、今一番カッコいい音楽をdaihachisouko、maniacでしっかりと取り入れてきたのはsogabe氏の尽力無くしては語れない。

daihachisoukoはもう無いけれど、その魂を脈々と受け継いだmaniac。

一介のバーラウンジに見えるが、BGMはDEEPでDOPE。

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東京のクラブシーンをグイグイとリードするToshiyuki Gotoさんをゲストに呼んだり、もうレジェンドと言ってもおかしくないDJ NORI御大をSunday afternoonでパーティーやっちゃったりするのは北海道唯一だと思う。

SOGABE氏のmixiより抜粋

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今まで関わってくれたみなさん、アーティストさん
スタッフさん、企業さん、ありがとうごさいます。
これからもよりいっそう冒険に勤しみますので
どうぞご一緒によろしくお願いします。

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時にはワンピースのルフィになり

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時にはゾマホン・ルフィンにもなるSOGABE氏の冒険にこれからも随行していこうと思います。

そんなSOGABE氏のTOUR GIG(本人曰く、GIGと未だに称しているのはBOOWYとオレだけだそーな)が決まっております。

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NOME OFFICE 13th ANNIVERSARY
TOUR GIG OBIHIRO
DJ SOGABE SCHEDULE
4/23(sat)HOME@AFRO
5/17(sat)Legend of Night@AFRO
未定@MANIAC
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ちなみに、我らがHOMEにもゲスト決定!

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[HOME]
4/23 @clubafro
Guest DJ's
SOGABE(nome office)
POGI
Resident DJ's
NOSAKA
wada-J groovin'

詳細は後日。。。

このHOME、間違いなく盛り上がります。そしてスゴい夜になるでしょう。

お楽しみに!!

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2011/03/31

wada-J groovin'生誕秘話

本名とDJとしての名前の差異は一体何なのかと聞かれる事が非常に多いのである。

ある女性からは

「え、なんでJなんですか?」

「ジュンイチロウ?」

ちげーよ!と昔のeggのギャル風に返すこともしばしば。

ちょうど去年の今頃、携帯のメアドを変更したときに本名で送られてしまうんですよ、一括送信って。

で、とても仲の良い写真の写りがチャゲアスのチャゲ似のハウスDJからは

「御丁寧にどうもありがとうございます。登録させていただきました。失礼ですが、どちらさまでしょうか?」

若い女性からは

「誰??」

wada-Jだよーと返信したら

「お前、名字が全然和田でもなければJでもないじゃないか!!」

と、お叱りを受けた事は記憶に新しいのでございます。

何故オレがwada-J groovin'を名乗っているのか?

それは、中学高校と深夜ラジオが好きだった事に由縁がある。小学生の高学年から明石英一郎のうまいっしょクラブを聴くのが日課であり、中学生の時は松村邦洋のオールナイトニッポンとコサキン、伊集院光の深夜の馬鹿力が定番であった。
そして、中学一年の時に地元のFM局であるFM-WINGのラジオ番組にたまたまMr.Childrenをリクエストした時に受付のおねーさんに『ラジオネームは何ですか?』と聞かれた瞬間、何を思ったのかこう答えたのだった

Akiowada


『和田アキ子です』と

パワーレディオショーという番組、今じゃもう無き番組である。

今だから言う。

あの時、中学一年生のオレがそう答えなければ今のwada-J groovin'は居なかっただろう。

あの時のオレへありがとう。

今でも少し変わったけれど、wada-J groovin'やってるよ。

今から16年前の話。

そうやってwada-J groovin'が形成したって話。

今でもtechnoやってますんで、これからも宜しくお願いします。。。

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2011/01/05

ハロー、2011年。

ハロー、2011。
グッバイ、2010。

ブログを放置しすぎました。

パソコンを買って、快適にブロガー生活をする予定だったけれど、お金っつーのは天下の回りもののはずが中々オレの所には回ってこないモンでねぇ。
RSRの続きは皆様の想像の中で(笑)

で、2010年後半は何やらイロイロとヤラれ過ぎでした。

とにかく何かしら不安をおぼえながらの後半期でした。
大親友が結婚したり、ジイちゃんがブッ倒れたり、なんだか気が休まらない気が自分で勝手にしているって言うか、まぁそんな感じ。

それ以外でも色々あるけれど、その大親友が結婚したことがとても嬉々したことであり、切欠を作ったのがオレって言うのもあって本当にホッとしたねぇ。
彼がくれた出会いのおかげで自分はとても成長できたってのもあるし、今のオレが居るのも彼のおかげだったりするから、彼と彼女が結ばれたのは何物にも代えがたいプレゼントを逆に貰っちゃったっつーかなぁ。
まぁ、とにかく嬉しかったんだよ、オレはさ。

学生時代に特に仲の良かったメンツを今ではTEAM-YAMIUCHIと呼んでいるのだが、その首領ちゃんとチヒロ(バラしてスマン)が結婚した事はもう嬉しくて嬉しくて。

オレが同じ短大で停車していた自学のバスでチヒロに話しかけて
『もしかして同級?高校どこ?』
『あー、H高なんだぁ!じゃあ○○(首領ちゃんの本名)知ってる?』
『あ、何となく…』
『実は同じ自学通ってんだよ~!』

・・・で、その日に高校時代に面識はあっても改めて出会うワケですよ。
恋愛感情とかそんなんは互いに他の人が居たわけで抜きにしてね。

それから学生の時はこの2人と明石君(首領ちゃんとオレの中学の同級生でオレと同じ短大に入学した)の4人、サブメンバーはバイト先で一緒だったトヲル氏とか首領ちゃんやオレの同級とか、それぞれオレが当時付き合っていた彼女とか、まーとにかくたくさん絡んだけれど、中核はこの4人だった。

池田のワイン城行ったり、よくわからんトコで突発的にやる焼肉ね。

有楽町ジンギスカンがスタンダードで、みんなでジンギスカンをハフハフしながら呑んだっけ。

チヒロのギャル臭いブルーバードと、明石のビガー(通称 バンバンビガロ号)と、オレのミラターボと。

何かわからんけれどよく行った芽室町。
アヘェと無意味に行った芽室町。
芽室町祥栄のJAにはパツキンのかわゆいギャルがいるからって期限間近のコーヒー牛乳を買いに行った芽室町。

最初はソフトクリームツアーとか行ったっけ。
ソングパークてオレの前歯が首領ちゃんの襲撃で欠け、チヒロの親友を明石に無理やりくっつけようと頑張ってみたけれど明石が逆切れして、カラオケチャンピオンで毒霧選手権とか開いて飲んだ酒を明石とオレで互いにブッカケあったり、ダーツで罰ゲームとかなんだりかんだり…それが2001→2002。

もう、2011年なんだなぁ…って。
そういう、精神的モラトリアムの喪失感というか、そういうものがとてもある。
特に、高校から卒業してもう10年という区切りが恐ろしい。
その後の人生の後悔も多いワケで。

あー、あの時にもっと上手く行ってりゃ今頃首領ちゃん達よりも早く所帯持っていたかも…とか
いや、あの時進学しないで自分のやりたい道に進んでりゃ今頃バイトでフーフーいいながらも劇団やってたかも…とか
あの時、もうちょっと勉強頑張ってりゃ教員免許持ってたかも・・・とか

だけどさ、ifで考えちゃイカんよね、もしドバイでホクトベカが予後不良になって無けりゃ今頃エスポワールシチーやフリオーソよりも上の仔作ってたかも知らんもんね。
本能寺の変がもしなかったら、今頃は全く違う世の中だったかも知らんしね。

まぁ、オレが生きる意味を見いだせたなぁというか、よくわからないけれどそんな感じ。

今日みたいな日はこの詩がとても心に滲みる。

なんか話変えるけれど自分でパーティーをやろうと2010年中に考えていたんだけれど、それに伴う仕事上の制約とか一言じゃ表し切れない実態のない何かに邪魔されてそれどころじゃなくなったっつーかなぁ。

とにかく不完全燃焼なままに28歳になりました、ありがとう。

そういや、年末に高校時代に社会科教えてくれていた高校の先生に会いまして…

オレの仕事っつーか、まぁオレも同業者に近い仕事をしているワケて、スゴくホメてもらいまして。
んで、色々高校時代の話やら同級生を交えながら語ったワケですよ。
その日はパーティーもブッキングしていたんで2時間くらいの間ですが結構話せました。
もう46歳くらいなる恩師がそれはそれは元気で。

オレか高校卒業後に転勤されて、無名に近い競技でありますが世界一…つまり世界チャンピオンになられたんですね。
それ、職場で3年くらい前か…生徒と一緒にTVを見ていたのだが、いきなりその先生が夕方の番組で特集されていて驚いたのです。

彼が十勝に帰ってきて相変わらずの健在ぶりに逆に元気をもらいましたねぇ。

だけど、いつまでこの仕事やってられるかわかんねーや。
だって、退職前に死んでいく同僚多いもんね。
死ぬかも知らんって危惧する時は、本当の自分の夢を叶えよう…なんてもし所帯を持っていない時の話だがそう思うのだ。

ってかさ、男はアツく生きなきゃ駄目だよな。

スロットの中の安田一平君に励まされました。-12000円(1/3)。

とにかく、2010年は「漂泊の思ひやまず…」の一年でした。

帯広のパーティーHOMEのレギュラーになったので、気持ちを引き締めながら音楽はやっていこうかなぁと思っておりますです。

おい、28歳ってよぉ…本当にアラサーじゃねぇか?!
どうすんだよ、オレの今の年にウチのオヤジはオレの弟もいてオレが今住んでる家も建てて二児の父だったっていうのに…
ますます、オレのオヤジの背中は遠のいていくなぁ。。。

ちなみにオレの高校時代のロシアを捩った10カ年計画(高校の時のノートより抜粋)

20歳 日本大学芸術学部演劇学科入学
21歳 バイト代を工面してなんとかターンテーブルとミキサーを購入
23歳 大人計画のオーディションに合格!演劇と学生生活、そしてバイトでヘロヘロの毎日。
24歳 単位不足のため1年留年。この頃からフロアでプレイ出来るようになる。
25歳 卒業。バイトと芝居に明け暮れる毎日。怪しいフリーライターを掛け持ち。
26歳 自分の劇団を持ちたい思いは高校時代から。しかし、現実として考え始める。
27歳 自分の劇団を立ち上げる準備をする。東京のManiac Love(今は亡き)でレギュラーとしてDJ。
28歳 演劇集団Aggressive Theater Project(通称 劇団ATP)を主宰。演者を4人に限定しての演劇活動。
42歳 JRAに馬主登録。
56歳 所有馬が日本優駿(日本ダービー)を制覇。晴れてダービーオーナーとなる。
120歳 まだまだ生きる。

…の予定だったはずだが、人生っつーのはわからんねぇ。

今のオレが歩んできた道っていうのは、自分ん中で考えていた平凡な道の一つだったのだけれど、歩んできてわかったよ。

平凡である事は、一番生きやすいのよねぇ☆

っつー事で、今年は良い意味で変化のある年にしていこうと思います。

やるならいましかねぇ~
 やるならいましかねぇ~

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2010/06/24

斜陽

気が付いたらパソコンの前に座っている。

27歳、彼女ナシ、初夏。

Boyz_on_the_run

ボーイズ・オン・ザ・ランの田西君と同じ境遇のwada-Jです。

どーしよぉ、周囲がみんな結婚してIKUZE!!

そう、気が付いたらパソコンの前に座ってwikipediaを見ているのである。

なにを見ていたのか?

訃報2010

殺害されたジャーナリスト

浅井孝祐

遠藤久美子

人は学びから解放される事は無い。

つまり、如何なる人間であっても無知なのである。

無知の知である。

知っているという事柄について、自分は知っているように思っても、その事について問答を繰り広げるうちに『本当にそうなんだろうか?』という自信の欠如が必ず出てくる。

韻を踏むようだが自信と自身の『解れ』である。

Sokuratesu

問答という行為は人間相互が高め合うのに必要な手段…ソクラテス哲学の真骨頂なのだ。

そう考えると、学習という幼少期から青年期にかけての『生業』

そして、社会人になってから『趣味としての学習』

オレはやっぱり社会人になってからの『学習』が楽しくて仕方ない。

あんなに勉強が嫌いだったのにね。

そう考えると、もっと基礎的な幼少期からの『生業としての学習』をしっかりしておけばと後悔する。

オレはいわゆる『理系』が本当に苦手だった。

だって、仕組みが理解できないんだもの。

本当に匙を投げたのが高校1年の3次関数から←早すぎwww

公式ばっか覚えなくちゃいけなくて、じゃあこの公式に至るまでどういう風な過程でそうなるのかってのが理解できなかった←今じゃ理解出来ても、数学アレルギーに陥った俺はそれどころじゃなかった。

今考えると、今まで博識な人々と触れ合う機会が多かったのに、自分自身を高める学問を深く追求することが殆ど無かったというのがとても勿体無かったと思う。

例えばジベレリンなんて言葉だけ知っていても植物ホルモンとして育成を促進するだけの物という認識しかなかった。

じゃあそれがどのような過程で発見され、どのような工程で物質として固定され、今現在どのように使われているのかなんて知りもしなかった。

まさに無知だ。

例えばバイオガスプラント

欧州(特にデンマークが顕著)で家畜のフンや生ごみなどの有機性廃棄物等を使ってバイオガスを発生させる装置なんだけれど、正直観た事が無い。

まだまだ無知なのである。

対人間なんてまさにそうだ。

相手の気持ちを思いやって行動できているだろうか?

発言一つ一つを考えて発しているだろうか?

思っていて行動しても、客観的視野でどのように見られているだろうか?

自分自身を問答している今日この頃。

かつてアントニオ猪木が引退の際に話していたあの言葉が脳裏に浮かぶ

Inoki

『人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に年老いていくものだと思います』

先日、マニアックでDJをした。

とにかく気持ちが良かった。

対クラウドである。

どれだけGrooveを創れるのか?

音楽を通したコミュニケーション、上手にアプローチ出来ただろうか?

オレの前にプレイしたPOGIさんの流れを壊さないようにプレイしたが、イマイチのプレイだったと思う。

もっと現場でプレイしたい!

あのフロアの一体感をもっともっとみんなで味わいたい!

そう感じた一夜だった。

学習・・・

とてもいい機会がやってくる。。。

201006_05_66_f0150866_857385

6月27日(日)16:00
DJ NORI from Tokyo
Sunday Afternoon Love
2,000YEN with 1drink

こーいう時は現場の大先輩に教えてもらおう。

そう思った今、日付が変わって木曜日。

今日は会議日だ・・・気合い入れねば。

まだ、パーティー構想が実現できていない。

今年中に動かなければ、何となく自分自身がダメになる気がする。

もっともっとポジティヴにならなきゃ。

そう思った27歳、初夏。

8月には28歳になる。

ただただ、風呂上りのビールは旨かった。

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2010/06/05

追悼

今週、悲しいニュースが届いた。

KAGAMIが亡くなった。

Discotwins

あのKAGAMIが亡くなったのである。

以下はDISCO TWINSの公式サイトより引用。

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訃報

DJ/プロデューサーのKAGAMI/DISCO TWINSは、

過労による心不全の為5月26日に永眠致しました。

享年33歳でした。

謹んで皆様にお知らせ致します。これまでKAGAMIを応援してくれた方々に感謝致します。

2010年5月27日

スタッフ一同

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前にも書いたが、オレのDJの原点は高校の時に深夜のテレビ『アサヒスーパードライ・スペシャルライヴ』に出ていた電気グルーヴのパフォーマンスだった。

ちなみにテクノの原点は同じく電気のシャングリラのカップリングに入っていたShangri-joppoなのね。

直接的にDJを目指す切っ掛けになったのはWIRE01の電気グルーヴにサポメンだったDJ TASAKAのバックスピン。

カッコ良かったなぁ。。。

もちろんそこからライヴからクラブへと興味は変遷するんだけれど、勿論KAGAMIの『KAGAMI節の選曲』にも傾倒することとなる。

2004年のPrecious hall。

TASAKAとKAGAMIのBACK2BACKにシビれまくって、"WIRE GIGS"のプチDVDでのKAGAMIのチュッパチャップスを頬張りながらのプレイを見て尚更シビれるというhappy cycle。。。

2005年だっけか06年か忘れたけれど、ACIDROOMに来た時にオレはZIMAを10本以上飲んでヘベレケになってしまったりなんだり。

良いパーティーほど気持ち良く酔えて、やがてペースが掴めなくて失敗するという若いヤツならではのパターン。

結局どうやってマン喫まで辿り着いたのかは憶えてはいないが、先日の日記のバイオハザードの件はまさにこの次の日の話だったりする。

やっぱ今も昔もデケデケベースのテクノが大好きで、KAGAMIの創り出すトラックはいつも僕の胸を一杯にしてくれた。

シンセが織り成す恍惚感というかいつもキラキラで、それでいてセンチメンタルなKAGAMIのテクノが大好きだった。

オレぁDJ TASAKAのツイートを見て思わず泣いてしまったよ。

今年もRSR2010の2日目、いつものMOON CIRCUSで彼のプレイが聴けると思っていた。

でももう彼のプレイは聴けないし、会うこともできない。

本当に寂しいけれど、KAGAMIのファンの一人として彼のように一生懸命テクノを楽しんでいこうと思います。

どうぞ安らかにお眠りください。

ちなみに昨日はKAGAMI追悼数え唄三番勝負ってことで、スロ屋でエウレカセブン打ってきた。

朝一から回っていないエウレカだったが、3万円のプラスになった。

今日はレコードでも買おうかな。

尊敬と感謝、そして合掌。

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